荒野の狼

気張らずにありのままの自分でいよう。

過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

虫の命さえも・・・・

        
            虫の命さえも・・・・・
 
 
          
          いのちの名前  (草も虫も鳥もみんな一つ)


今朝の出来ごとでした。
玄関で妻の大声がしました。「舞喜!虫かごの虫がいないよ!」「どうしたの?」
実は、小1の舞喜の宿題で、“虫を捕ってきて、そのむしを描くので学校へ虫を持ってくる”という宿題が出ていました。
三連休でしたので、舞喜は学校から家に帰ると、小3のお兄ちゃんと一緒に虫とり網をもって外へ飛び出していきました。
わが家は、川越の外れで野っ原や、雑木林が近くにいっぱいあるので昆虫採集には事欠きませんが、都会の学校では考えられない宿題ですね!しかも、急に冷え込んできた今日この頃、虫の姿も前のようには見かけ無くなりました。
でも、子供達はすぐに殿様バッタやショウリョウ・バッタやトンボ・アマガエルなどを捕まえて帰ってきました。
自慢そうに、捕った時のことを得意になって話してくれましたが、学校へ持っていくにはまだ三日もあるので、死んでしまうと可哀そうだからわが家の庭に放してあげることにしたのです。
そして昨日の午後また、虫かごと網を持って虫とりに出ていき、今度は、シオカラ・トンボと秋アカネを捕まえてきたのですけれど、バッタは捕まえられなかったみたいで、前ほどの得意げな顔がありませんでした。
そして、今朝、学校へ行く時間になって、妻が虫の入っていない虫かごを見て騒いでいるのでした。
 
「舞喜!虫どうしたの?」って聞くと「トンボが弱、弱しそうだったので、逃がしてあげた。死んだら可哀そうだから」
「学校に虫持っていけなかったら、宿題も出来ないし、絵も描けないだろう。」って言ったら、さみしそうに「でも・・・いいよ。」って・・・・・・・。
とっさに、私は家で飼育していたカブトムシとノコギリクワガタを虫かごに入れてあげたら嬉しそうに持って行きました。
イメージ 1
今年の夏、わが家で蝉が脱皮し成虫になるところを観察をした時、蝉の命の話をしてあげました。
親虫になると蝉は一・二週間の命しかないことを、それと昆虫のほとんどは、寒い冬を卵や、また土の中で幼虫で生き延びて、親虫は死んでしまうんだよ。 
舞喜の心の中にはその事が残っていたみたいです。
 
ある時、蜘蛛の巣にかかって身動き取れずにもがいていた虫を取って虫の体に付いている蜘蛛の糸を丁寧にとってあげて逃がしてあげた事があった事を、妻から聞きとても嬉しい気持ちになりました。
 
お釈迦様は悟りを開いた後、一匹の虫をも殺さぬように気を配りながら歩いたと言われています。
 
担任の先生を手こずらしている問題児のヤンチャ坊主。
    舞喜の心の中に「一匹の虫の命さえも・・・・・憐れむ心」を感じただけで、
          「これでいいのだ!これでいいのだ!」と心の中でつぶやきました。
イメージ 2
       
 
 
 

 
                  小さき希望も愛あれば
         
イメージ 1
愛の笑顔 心に咲くの見出しが目に留まりました。3・11の記録として・・・・・・・・。
北上川沿いにある小高い丘の上に二百本のヒマワリが植えられ八月には満開に咲いていたそうです。
植えたのは3・11の日にこの丘で亡くなった大川小学校の児童たちの一人、狩野愛ちゃんの一家でした。「愛ちゃんが生きた証しを」と六月に植えたヒマワリでした。やはり子供を亡くされた親たちも加わり
植えたそうです。普段愛ちゃんを思い出しては涙することが多かった狩野さん一家も、ここに来ると、なぜか笑顔になれたそうです。
夏が過ぎ、ヒマワリは枯れたが、種が残った。その種を分けてほしいという手紙や申し込みが相次いでいるらしい。ある人は「孫と一緒に育てたい。ヒマワリが咲いたら愛ちゃんたちが夏休みにわが家に遊びにきてくれたと思うでしょう・・・・」と。
愛ちゃんの母、あけみさんは、愛ちゃんが人々の記憶から消えていくことが怖かった。でも手紙を読み、
「愛はみんなの心の中で生きている」と思えるようになった。来年も丘の上で、笑顔で愛ちゃんに会える日が楽しみだ。と記事は締めくくっていました。

イメージ 2
 
輝やくマリアの愛は尊し!
           小さき希望も愛があれば
 
 
マリーゴールドの意味は
、「聖母マリアの黄金の花、」という意味だそうです。       (野の花散歩さんより)
 
花はなにも誇らず、なにも語らず只、ただそこに咲いているだけ・・・・・・・・。
なにも見えず、なにも語らず只私たちに寄り添い優しく包んでくれている神さまの愛のように・・・・・・。
花は私たちのこころを癒してくれている。誇らず、語らずただそこに咲いているだけ。
 
イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
プア・イズ・ビューティフル
  
  主よ貧困と飢えのうちに生き死ぬ
   世界中の同胞のために働く私たちを
   そのことにふさわしい者にしてください


 
 
 

       貧しい者は、金持よりも美しい顔でよく笑う


私はネット上で繰り広げられている、キリスト教の教義論争、真理論争を読んでいて疲れてしまいました。
 
疲れている時、何時も読みたくなるのが、フランシスコやマザー・テレサやリジューのテレジアの本なんです。
それは、それらの先人の生きざまの中に、生き方を通して語られてくる真理を感じるからです。頭で語るキリストでなく、キリストに真実ふれた生き生きとしたキリストの愛の真理を感じるからです。
 
教会の本棚にあった「マザー・テレサ  あふれる愛」 沖 守弘著 を見つけ借りてきて読んでみました。
まだマザー・テレサが日本ではあまり知られていない時期に写真家としてマザー・テレサの生活の中に家族のように密着しマザー・テレサからも信頼されていた人の本でした。クリスチャンでない彼であったらこそ、先入観なしにマザー・テレサを通してキリストの愛の真理に触れられたのだろうと思う。

「私はある日、托鉢で得たわずかな米を、スラムにすむやせ衰えた主婦にわけあたえました。するとどうでしょう、彼女はそのわずかな米をさらに半分にわけて裏の家に持って行ったのです。私が、あなたの家族は十人もいるのにそんなに少なくて大丈夫なの、ときくと、彼女はニッコリ笑って、でもあの人の家はもう何日も何も食べていないんです。と答えたのです。私が、貧しい人は美しい、という意味が少しはおわかりいただけたでしょうか」 (1976年カナダ、バンクーバー、国連人間居住会議の壇上にて)

もし貧しい人びとが飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そして私が、その人たちにパンを、服を、そして愛を、思いやりをあたえなかったからなのです。

飢えている人がいます。でもそれは、パンがないためではありません。愛、思いやりへの飢え、だれかの“自分”でありたいという思いがみたされない飢えなのです。裸の人もいます。服がない、ということではありません。見ず知らずということだけで、やさしい心づかいをしめしてもらえないという意味の裸なのです。でも、それらの人びとに話すことはできるだけ少なくしましょう。説教してきかせても、それは人とふれあう場にはなりません。ほうきをもってだれかの家をきれいにしてあげてごらんなさい、そのほうがもっと雄弁なのですから。

本の著者・沖さんは次のように言った。
『天国の神の福音を説くことに精力をつかって、ともすれば現実と遊離しているキリスト教は、しょせんそういうものだと、なんの疑問ももたなかったぼくには、マザー・テレサたち<神の愛の宣教者たち>の身の処しようは、ことばの本来の意味でラジカルに思えた。比喩的にいえば、天国へ天国へと上昇することをキリストのもとにいたることだとする“常識的”宗教と、貧しき人びとのなかへ、さらに貧しい人のなかへと無限に下降し、貧しき人々
のなかへにキリストそのものを見よう、下降することによって、
みずからがキリストと一体化しようとするマザー・テレサたちの活動と、そのベクトルは真反対だ。
究極、貧しいなかのもっとも貧しい人こそキリスト、という信念は、マザー・テレサたちをラジカルにし、彼女たちはラジカルでありつづけることにおいて、その精神は剛毅であり、きわめて楽天的でありつづけるのではないか。』
 
宗教キリスト教をしていると、真理がどうの、教理がどうのと論議しているあまり、パリサイ人のように知らず知らずキリストから遠のき、的外れになってしまうような気がする。
キリストは私たちのすぐ近くにいる。予定論がどうの、セカンドチャンスがどうのこうの・・・・・・。
それは過去のどえらい神学者さまの考え出したこと、所詮人間の貧しい思考の産物にすぎない。
神を信じることは、自分のすべてを神に委ねることである。生まれたての赤子が母に抱かれて無心に乳を吸い
眠っているさまのように。
 
コリント人への手紙
キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
 1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
 1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
 1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
 1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
 1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
 1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
 1:31 まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
 
リジューのテレーズも自叙伝の中でこう言っています。
 
私が歩いていた道は、ほんとうにまっすぐで光に満ちていましたので、イエズス様以外の道案内の必要がなかったのでした。
この世においでになった時、喜びにあふれて「天地の主なる父よ、私はあなたに感謝いたします。
これらのことを賢い人、りこうな人に隠して小さな人々にお示しくださったことを」と仰せになった主は、私の上に
御あわれみを輝かせたいとお望みになりました。
小さく弱い者であったからこそ、主は私のほうに御身をかがめ、御自分の愛に関する事柄をひそかに教えてくださったのです。
ああ、もしも学問に生涯をささげた学者たちが、私のところへ尋ねに来たとしたら、わずか十四歳の子供が、彼らの博学の発見することのできなかった秘密を悟っているのを見て、きっと驚いたことでしょう。なぜなら、この秘密を知るには、心の貧しい者でなければなりませんから・・・・・・・・・
 
 
 
イメージ 2

       好子さんの昇天を通して
   幼子に変えられ、純粋にイエスさまに身を委ねられていた
           信仰を見つめるにつけ
 
          真の安息とはすべてを委ねた。
         イエスさまの懐の中にあるのだなぁ!
 
 
 
イエスさまの眼差し
  
    親切で慈しみ深くありなさい 
    あなたに出会った人がだれでも
    前よりももっと気持よく
    明るくなって帰るようになさい
    親切があなたの表情に
    まなざしに、ほほえみに
    温かく声をかけることばにあらわれるようにイメージ 3
    子どもにも貧しい人にも
    苦しんでいる孤独な人すべてに
    いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい
    世話するだけでなく
    あなたの心をあたえなさい                          
 
 

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事